熱中する心がなければ、
この世に進歩はあり得ない。

   ウッドロー・ウィルソン(アメリカ第28代大統領)



最近のツイッターでのつぶやきをまとめてみます。


■ニードは刻々と変化しないといけない


患者のニードは自分の可能性を感じることで刻々と変化する。

患者の要求が変化しない、

ということはこちらの関わりが
患者にとっては意味のないことかもしれないと
反省し、軌道修正をする時なのかもしれない。


自分の身体の変化を実感できることで、
初めて自分の身体と向き合うことができ、
少しずつ具体的な目標や要求が生まれてくる気がする。

実際の状況とニードが大きくずれている方は
自分の身体の状況が分からないから、
ニードが大雑把で抽象的で、
現時点ではすぐには達成できない要求になってしまうのかもしれない。



長期的な目標を提示することももちろん大切だけど、
そのためには今何をすべきか、を具体的に、
そして患者自身が実感できる方法を提示する必要がある。

セラピスト側がその段階的な課題を見据えていないから、
単に立つ、歩くといった
患者自身ができないことをそのままやらせる、という訓練になる。



立てない患者に、立つ訓練をし、代償が出れば、それは違うと言う。

患者は立ち方の分からない身体をフルに使って、
立てというセラピストの無茶な要求に答えようとしている。

それに文句をいう。
患者からしてみたら、
じゃあどうやって立ったらいいか教えなさいよ、ってゆう話でしょう。



自分は運動学習を患者さん自身が実感でき、
再現できることだと思っています。
課題を運でできたりできなかったり、というのはただやっているだけ。
再現するためには何に注意したり、何を感じたりすべきなのか、
が明確でないといけないと思います。




■随意運動と筋収縮の意識…


片麻痺の患者さん。上肢を全力で挙上する方。
反対側は肘の位置を動かす、と確認し、
麻痺側はこちらが肘の位置を握っておくことで
「こうやって動かせば良いんだ!」とおっしゃる。

その瞬間から上肢全体の過剰努力はなくなる。
その方は肘のことなんか気にすること自体に気づかなかったんだと思う。



運動は随意的に筋を収縮させることではなく、
運動肢の空間的な位置の変化やその位置の保持という
身体そのものの感じとりが大前提にあり、

速さや強さ、というその度合いの強さに応じて
どの筋かの選択や運動単位の参加数や赤筋・白筋の参加割合などは
それに応じた付随する結果でしかないと思う。


つまりあるパターンでしか運動を行えない場合、
できない運動方向への運動を起こす筋収縮を促すのではなく、
その運動に付随する感覚の手がかりを与えた方が良い場合がある。

単なる他動運動ではなく、
患者さんが自分で動かしていると実感できるために必要な感覚を探す。



そもそもない運動方向に筋収縮を促しただけでは
運動は上手くできない方が多い。

だってその運動方向を患者さんの身体は忘れてるんだから。

筋収縮とそこから返ってくる関節運動や
接触部の触感や圧の変化が同時に生じることで
初めて自分で動かしたという知覚が生まれるのでないか。



運動に意識的な筋収縮は必要ない。

本当はそんなこと誰だって知っている。
だって解剖学の知識がない一般の方でも、
言葉さえ知らない赤ちゃんでも自分の身体を動かせるんだから。

セラピストは学んだ知識に頼るために、
運動=特定の筋の筋収縮というありもしない呪縛にはまり、

患者さんを混乱させる。



細かい筋活動を意識するあまり全体がぎこちなくなったりする。

ある部位の筋収縮を意識することで
全体が上手くできる人には有効な場合も時折ありますが。



■身体への気づき


脊髄小脳変性症の訪問リハ担当の利用者さん。
一年前は両手で手すりにしがみつかないと、
座ってられず、手を離せば倒れていた。

けど今は体幹、上肢の失調も自分である程度コントロールでき、
今はスプーンで食事をし、
自分でコップを持ちうがいをする。

発症5,6年でも変化することを目の当たりに。


この方は自分の今の身体を感じ取れる。
昔と何が違うかを考えられる。
そこでの違和感を解決する方法を一緒に模索し、
独りでコントロールできることを探す。

依存的な患者さんはリハ中にも
自分の身体への意識が乏しいことが多いように思う。
リハをすると勝手に治る、と期待しているかもしれない…



自分の身体を思い通りに感じ、
動かすためのコツをつかんでもらう、のが自分の役割だと思う。

その身体をコントロールするのはあくまで本人。
患者さんにもそれを実感し、
理解してもらえるよう努力する。

身体に気づくきっかけをこちらは提供する。

それをリハ以外でも自分で行う重要性も伝える。




以上です★